『経験のメタモルフォーゼ』道新夕刊コラムNo.11
不可逆的な出会い…それを経験する前の自分には、もう戻る事ができない程の経験。
あの停電の日に見せられた光景と風景。「本当の恵み」はそこに有るのに。
現代を生きる私達は、それを享受するすべを、学び損ねて生きてきた気がした・・・。
(北海道新聞 夕刊みなみ風 リレーエッセイ「立待岬」2018年10月22日掲載)
『経験のメタモルフォーゼ』
いもむしが蝶になる。おたまじゃくしが蛙になる。それを【メタモルフォーゼ=変態】という。 前の姿に戻れない。新しい姿に合わせて、生きる場所も一変する。一方、私達は”ヒト型”で生まれ、そのまま大きくなる。…そのはずだ。だが『経験のメタモルフォーゼ』という本で、教育哲学者の高橋勝さんは言う。変態は、昆虫や両生類だけの出来事ではない、と。 九月の停電の2日間。ありがたいことに、私の家は電気の復旧と共に普段の生活に戻ったが、物の見え方の何かが変わった。あの日の、砂金を撒いたような満点の夜空。でも、手元の電灯をたった一つ点けただけで、その星粒が消えた衝撃。他地との流通が途絶え、空っぽになったコンビニの商品棚。いつも通りに野菜が並ぶ直売所。どちらが我が町の正常か。店の営業情報について必死に言い交わす人々のそばで、七飯の秀峰横津岳は「何でもあるぞお、おれのところに、いつでも来お」と胸を開いているようだった。そうだ、恵みはそこに有る。水も食べ物も材木も。けれど、土や川に金銭をさし入れても、飲み水や魚を手元にさし出してくれはしない。恵みを享受するための技法を、学び損ねて生きてきた…開店を待つしかできない私。 宮沢賢治の童話の中で、このような会話が繰り返される場面があった。「少し木ぃ貰ってもいいかあ」と人が山に聞く。すると、森はちょっと偉そうに「ようし」と答える。人は森に、お金を払ったか。払ったのは何だ? 生きる力とは何? 世界が逆転して見えた。
人間のメタモルフォーゼは、生物学的それとしてではなく、経験によって起きるという。経済的な利便性を維持するための「計画停電」についての議論が湧く。そうなる前に、できるなら「教育停電」についてもいつか話をしてみたい。ひと本来の知性と幸福、技法と力を呼び起こす、経験のメタモルフォーゼのために。それが本当の計画的な停電なのではないのだろうか。身にしみて想ったあの夜。見えなくなった満天の空、忘れてはいけない空。(童話作家)