『野の聖、慶念坊』道新夕刊コラムNo.12
今年最後の掲載となりました。毎度大切な出来事を思い出させて頂き、綴らせて頂き、温かなご感想を頂き、本当に、有難うございました。 宮城県涌谷町のやまあいに、その方のお墓はありました。「慶念」さま・・・五十三人の慈父。そして私の、心の中の父。
(北海道新聞 夕刊みなみ風 リレーエッセイ「立待岬」2018年10月22日掲載)
『野の聖、慶念坊』ーののひじり・きょうねんぼうー 十数年前の私は、仙台で学生生活をしながら、電車で1時間、さらに徒歩1時間の山あいにある道場に通い、創作や文化活動を学んでいた。その道場の近くの高台に、「慶念」というお坊様の墓石があった。 宮城県涌谷町。竹林と水田が広がり、秋には稲穂の金の海。しかし、江戸時代末、その一帯は地獄絵図であったという。強大な自然災害、凶作と飢饉に苦しんだ。口減らしのため、親は生まれた我が子を泣く泣くあやめた。川を嬰児が流れていくー。慶念は、失われてゆく命から目を背けられなかった。自ら洞穴に住まう暮らしでありながら、赤子をもらいうけ、その手で養育。五十三人の子の父となった。出ない乳を吸わせた胸は伸びきって垂れた。突き動かされたとしか言えない。事業でも策でもない、せざるを得ぬという思い。いわれなき罪で投獄され、絶食の末に五十二歳で没。葬儀参列者の数、三千人。地元の方々は彼を「福祉の父」と呼び、今も深く敬う。私も何度、慶念さんの元へ行ったろう。泣きながら、自分の生き方を、鎮座する石にたずねた。 七飯帰郷後、郷里での創作・文化活動を志した。でも思えば、ご依頼含め、頂いたご縁の多くは、福祉関係の方々や、その現場に関わるものだった。それは何を意味するのだろう。福祉という語を調べると【最低限の幸福】の文字が目に飛び込む。・・・私は、その為に何ができたか。帰郷七年九ヶ月目の今 –同時に、東日本大震災からの年月–、ふたたび胸の慶念様にたずねる。(童話作家)